2018.08.20 カテゴリー:

毎度おおきに。京都の鍵屋、らびっとキーサービスの清水です。

今回はマンションの共用部ドアに使用されている錠前の交換作業です。

多くのマンションで採用されていますが、非常階段の出入り口ドアというものには、自動施錠の錠前が設置されている場合があります。

ホテルのお部屋のように、鍵を持たずに部屋を出てしまうと、ドアが閉まった瞬間に鍵がかかり入れなくなってしまう。

鍵の掛け忘れを防ぎたいようなドアには、この手の自動施錠の錠前が使用されるのです。

エントランスにオートロックが設置されているマンションであれば、少なくとも地上に出る階の非常階段ドアだけでも必ず自動施錠錠が使われます。

住人以外が安易に各部屋のドア前まで立ち入ることの無いようにするためです。

マンションの非常階段は、そのマンション全体の間取りや階によっては、エレベーターで地上に降り、正規のエントランスから外出するよりも便利な場合もあります。

このようなマンションでは、その名前に反して「非常」ではない階段となってしまうため、そこに使われている錠前の寿命も通常よりは短くなる傾向にあります。

今回もその事例に当てはまるマンションで、自動施錠が上手く機能しなくなった為に本体交換の運びとなりました。

現状はこんな感じ。左に見える三角形の部品が施錠のためのデッドラッチと呼ばれる部分なのですが、こいつが変な動きをするせいで鍵がかからなかったり、ドアが閉まらなくなったりしています。

今回はこれの本体ケースという部分だけを交換します。

古いのをチャチャっと外してぇ~

穴だけになってぇ~

色は違うけど同じ錠前部品を取り出してぇ~

ハイ終了!見た目はほとんど変わってませんね。

一般の方が見てもきっと、何を直したのかは気づかないかも。

因みに鍵穴の部分(シリンダー)とレバーハンドルは今回、古いものをそのまま移植しております。鍵穴はマスターシステムを組んだ共用の鍵穴となっていますので、換えてしまうと外から住人さんが入れなくなってしまいますから。

基本、自動施錠の錠前というのは一方通行です。

中から外へ。

出たら戻れないものなんです。鍵を持つ人以外は。

今の所、時間も一方通行の流れであり、通り過ぎた過去に戻る方法はありません。

一方通行のドアの連続である時間の流れを逆行して、過去に戻る鍵を持っている人がいるとは思われていない現在。

今という瞬間を楽しく、やりたいことにフォーカスして出来ることを真摯に愚直にやる。という考え方が、人生を実りあるモノし、またそれぞれの人が心豊かに生きる大切な考え方として、各方面から聞かれます。

もし人生の時間というドアを逆方向に通り抜けられるのなら、上記のような考え方をあまり重視しないでもよくなるのだろうか。

「人生をやり直したい。」「あの時こうしておいたら良かった」「昔、あの人とああなっておいた方が正解だったかもしれない」「戻れるものなら、やり直したい。」

こんなセリフを言う人と、いまでも自分の周りでたま~に遭遇するが、もしそう出来たとしたなら、今の時点まで戻ってきた時に本当により良い人生を歩んでいると感じて、生きていけるのだろうか?

個人的には、おそらくそうはならないのだろうと思う。

なぜなら、今何かしら満たされていないと感じる部分を持っているのならそれは、今より昔の自分がやってきたこと或いはやらないできたことの連続の末に出来上がった今なのだから、過去に戻ってやり直したとしても、今のまま過去に戻ったのではきっと、あまり変化のない同じような日々をまたチョイスしてしまうであろうし。

要は昔から変わらなかった自分の考え方や価値観、基本的な生きる姿勢を持ったままでは、何度過去に戻って選択を変えようが、誰かとの関係を変えようが、心が満たされなければ人生が変わったとは思えないだろうし、結果として何度も戻ってはやりなおしてはまた戻るの永遠ループになってしまうと思う。

じゃあ逆に、過去に戻って過去をに干渉は出来ないけれど、永遠に死なないで時間があるとしたらどうなんだろう。

実は私個人的にはこちらのパターンの方がなってみたい願望が強いのだが(*´艸`*)

今が満たされない、思い描く理想の人生じゃない。でも過去には戻れない。

でも永遠に死なない。自分の時間は永遠に終わらない。

となれば、今日までやってきたノンビリした或いはせかせかした生き方をマイペースでつづけていけばいつか、満たされるための出会いや偶然やラッキーな巡り合わせが人生を変えてくれるのだろうか。

個人的にはこれも、やっぱりならないだろうなぁと思う。

なぜなら、今日までと同じ生き方を仮に千年続けても、その人自身の満足は得られないのじゃないだろうか。

千年生き続ける存在として人々に認知されてしまったとしても、その時に自分に何かしら積み上げ身につけたモノがなければきっと、ただ歴史の生き証人として貴重がられるか、その不老不死の秘密を知りたいと願う権力に絡め取られてモルモットとして生かされるだけの日々が訪れるだろうし。

2つの方向を考えてみて思うに、人生の満足感って行動にしか、いや行為にしかないのかも。

何を志向し、何を好み、好んだがゆえに何に取り組み、事績としてでも身につくものとしてでもどちらでも良いが、積み上がるような何を行って時を通り過ぎたか。

こうしたいと思った。だからこれをしてきた。ゆえにこうなった。こういう人と出会った。

その結果としての今がある。今、そうできて居ることに満足を感じる。

満足のある幸せな生というものは、時間という要素とは別の部分で決まるのだなぁ・・・

とはいえ、個人的には永遠に生きてみたいけど(*`▽´*)ウヒョヒョ

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